第3回 学童疎開のこと

長老むかしがたり 第3回 学童疎開のこと

昭和19年頃から、大泉寺、養樹院を利用した集団疎開が始まっ
た。集団疎開とは別に、縁故疎開という家族で疎開してきたのもい
た。うちでも二家族引き受けていたし、シンヤにも二家族いたはず
だ。だからかなりの数になったはず。ひとクラスあたり5,6人疎
開の子がいたはずだ。集団疎開には、引率の先生は特別に来ていな
かったと思う。多分いろいろなところに分散して疎開させたので、
こちらまで手が回らなかったのだろう。疎開の子は、都会とこの辺
の教育水準が違ったのか、はじめはみんな成績が良かった。でも、
そのうち同じ位になった。その頃には、男の先生はみんな兵隊にと
られ、先生はほとんど地元出身の代用教員だった。子どもたちの面
倒は、お寺で見ていて、近所の娘さんが手伝いに行っていた。疎開
の子とは、普通に遊んだし、勤労奉仕ということで、稲刈りをして
もらったこともある。戦争が終わっても、一斉に帰ったわけではな
く、すぐに帰ったものいるし、かなり残っている子もいた、今から
思うと、そのまま戦災孤児になってしまったのもいたかもしれない
ね。