忠生村誌によれば、小山田有重が開発領主として、現在の埼玉県
から今の大泉寺付近に入ったのが1171年となっています。その
後、有重は兄の畠山重能とともに地方の武士が皇室や有力貴族の警
護をする大番役として京都に赴きます。1180年に伊豆に流され
ていた源頼朝が反乱を起こし有重の息子たちが結局、源氏側につい
たため有重たちは平家によって、拘禁されてしまいます。そして
、1183年夏、木曽義仲が京都を目指し、延暦寺に迫ったため、
平家は都落ちすることになりました。その際のいきさつを、平家物
語から紹介します(平家物語第七十句畠山・小山田のこと)。
都落ちの混乱の中、拘禁中の有重らは右大臣平宗盛の命令で首を
はねられそうになりますが、平知盛、時忠から「このような中で百
人、千人の首を切っても状況は変わりません。郷里にいる妻子がさ
だめし嘆くことでしょう。今か、今かと帰りを待っているところに
、『斬られたり』と伝えられたならば、どれだけ嘆くことでしょう
。これらの者たちを東国に返すのがよいでしょう」と言葉を尽くし
て説得され、宗盛も「いとまを給う。急ぎ下れ」と言われるが二人
は「どこまでもお供いたします」と言うと宗盛が「お前たちの心は
東国にある。体だけ西国に連れていくこともあるまい。早々に帰れ
」と再三言われ涙をおさえて帰ろうとするが、やはり、涙は抑えが
たし。とあります。
平家物語の異本の一つである「源平盛衰記」では、大阪の淀まで
一緒に下りここで宗盛に説得され泣く泣く別れを告げる場面となっ
ています。
第6回 小山田氏のこと
