第4回 学童疎開について

長老むかしがたり 第4回 学童疎開について
第3回の学童疎開について、少し深堀してみました
太平洋戦争末期日本の戦局は、不利においこまれ、本土が米
軍の長距離大型爆撃機B29の航続距離圏に入るに及んで急遽学
童疎開を実施することになりました。1944年(昭和19年
)6月30日付閣議決定された「学童疎開促進要綱」により縁
故疎開先がない大都市の国民学校の3年生から6年生の学童が
集団疎開しました。学童疎開は、空襲の惨禍から若い生命を守
り、次代の戦力を温存することを目的とした学童の戦闘配置を
示すものとされ実施されました。疎開とは、疎(まば)らに展
開するという軍事用語です。
昭和19年8月15日に忠生村・鶴川村では、品川区の鈴ヶ
森国民学校の一部307名を受け入れ、そのうち小山田地区で
は、大泉寺59名、養樹院37名の受け入れを行っています。
引き上げは、昭和20年2月下旬から3月上旬にかけ、卒業の
ため6年生が復帰し、ほかは昭和20年10月22日に復帰し
ています。また、疎開中に家族が被災し帰る家も親もなくした
り、行方不明になってしまった戦災孤児は、根岸の十字路近く
の通称「十字荘」に収容されました。
その十字荘は、児童福祉法の整備などにより、昭和27年7
月に東久留米市の小山児童学園に併合されました。その後、十
字荘は大泉寺に払い下げられ「泉荘」と名付けられ地域の文化
施設として利用されました。
※私には、家にテレビがまだなかった昭和30年代中頃に祖母
、弟の三人で泉荘に大相撲のテレビ中継を見に行った記憶があ
ります。今回いろいろ調べる中で、祖母との思い出の施設が、
戦争、学童疎開、戦災孤児につながる施設であったとは、ただ
ただ驚くばかりです。
参考図書:全国学童疎開連絡協議会公式ページ
町田市教育史 上巻 町田市教育委員会

町田市史 下巻 町田市(962ページに大泉寺に疎開した3年生
の作文あり)
平和への祈りを込めて 戦争時代の町田  町田市